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第十五話 薔薇と囁き

Author: 月歌
last update Last Updated: 2025-07-04 15:42:22

薔薇の庭園に囲まれたテラス席からは、街が一望できた。

陽光に照らされた瓦屋根が並び、その向こうには、きらめく青い海が広がっている。

「……素敵」

思わずひかりの唇からこぼれた感嘆に、稜真は笑みを浮かべた。

「気に入ってもらえたようで、光栄です」

そう言って、一輪の薔薇を差し出す、

棘のない、柔らかなピンクの花びらが、初夏の風にふわりと揺れた。

「この薔薇はね、香りが自慢なんだ。どうぞ、あなたに」

そっと差し出された薔薇を、ひかりは両手で受け取る。

「……ありがとうございます。とても良い香りです」

玲一郎は、その様子を静かに見つめていた。

目を細めるでもなく、怒るでもなく――けれど、明らかに言葉少なだった。

「この店の運営は、海外から呼んだパティシエに任せていてね。僕はもっぱら、庭の手入れと味見担当です」

稜真はそう言って、ふと視線を奥の建物に移す。

「僕自身は、あちらに住んでいます。バラ園を抜けた先にある、ちょっとした洋館ですけどね。よければ、今度案内を――」

「叔父さん」

玲一郎が低く咳払いをした。

「ここは洋菓子店でしょう? メニューを見せていただけますか」

その言いぶりは、やや強めだった。

稜真は一瞬きょとんとしたが、すぐに柔らかく笑ってみせた。

「もちろん。すぐに用意させましょう」

そう言って店の奥へと姿を消す。

そのあとに残った沈黙の中、ひかりは玲一郎の横顔を盗み見た。

(……もしかして、仲が悪いの?)

そんな疑問が顔に出てしまったのだろう。玲一郎が、ふいにぽつりと呟いた。

「誤解しないでください。別に、叔父との仲が悪いわけではない。ただ……貴女が……」

その先を続けず、言葉は途中で切れた。

(……私が、なに?)

ひかりが小さく首をかしげたとき、給仕のメイドが静かに近づき、丁寧な所作で一冊のメニューを差し出した。

手に取ったそれは、厚手のクロス紙に革装の装丁が施された、まるで小さな画集のような品だった。

そっと開いてみると、ページの上には色彩豊かなイラストが並んでいた。

写真ではない――すべてが、水彩で描かれた繊細な絵。

瑞々しい果実をあしらったタルトや、層の美しいミルフィーユ、ほんのり湯気をたてるコーヒーカップ。

どれも実物以上に魅力的で、眺めているだけで甘い香りが立ちのぼってきそうだった。

「……素敵……」

ひかりが思わずつぶやいたその声に、そっと近
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